History of Ofunato Port大船渡港の歴史
Chapter 01
大船渡港の発展と
渋沢栄一翁
「東北の開発と発展こそが日本の発展にこの上なく重要である」。
この言葉は明治40年6月20日に発行された『大船渡開港案内』に掲載された渋沢栄一の言葉です。
渋沢栄一はこの時期、日本の資本主義の基礎を築くために全国各地で様々な事業を興していますが、そのうちの一つが大船渡港の開発を軸とした東北開発の一大事業でした。
『大船渡開港案内』で渋沢栄一は、「大船渡は東北における絶好の良港であり完全無欠の良港である。船舶碇繋区域の広大は横浜の比にあらず」と述べ、「開港した暁には東北一の良港としてほかに肩を並べるものがないだろう」とも述べています。
渋沢栄一は明治32年2月「大船渡開港鉄道鉄業発起主唱会」を開催し、岩手・秋田の両県を巻き込んで、大船渡から秋田の横手までの横断鉄道を計画。鉄をはじめとする東北にある豊富な鉱物を、横断鉄道を使って大船渡に運び、大船渡に東洋一の大製鉄所を建設しようと考えていました。
そのための用地買収まで進めていましたが、周到に計画されたこの壮大な計画は日露戦争などの様々な社会情勢の中で頓挫してしまいました。
しかし渋沢栄一のビジョンは、その後のセメントプラントの建設や一関から大船渡までの国鉄大船渡線の開通、大船渡湾の埠頭整備へとつながり、大船渡港発展の原点として今もその意思は脈々と受け継がれています。
Chapter 02
〝サン・アンドレス〟と
名付けられた大船渡湾
渋沢栄一翁の大船渡湾開発計画から遡ること300年前の1611年(慶長16年)、スペインの探検家セバスチャン・ビスカイノが三陸沿岸の測量を名目に太平洋沿岸を北上し11月30日に大船渡湾に入り一泊しました。
このとき天然の良港に感嘆したビスカイノは、この日がキリスト教の聖人アンドレの祝日であることから「サン・アンドレス」と名付けたとビスカイノの航海日誌『金銀島探検報告』に書かれています。
ビスカイノの航海日誌がなぜ『金銀島探検報告』なのかと言えば、ビスカイノの沿岸測量は表向きで、その本当の目的はヨーロッパに長く伝わるジパング周辺にある「金銀島」の探索だったと言われているからです。
大船渡市をはじめとするこの気仙地方は16世紀まで世界最大級の金が産出されており、平泉の黄金文化を支えた一大産金地帯でした。
ビスカイノは金銀島を求め大船渡湾に入り、船上から今出山を間近に眺めたはずですが、その今出山では昭和18年まで日産35キロ(現在の貨幣価値で約1.6億円)の金が掘られていました。ビスカイノはこの一帯こそが「金銀島」だとは気づかずに、翌朝にはまた北に向かって出港してしまったのでした。
野々田埠頭の脇にある市民公園は「サン・アンドレス公園」と名付けられていますが、それはビスカイノが付けてくれたこの美しい名を忘れないようにと市民公募で名付けられたものです。
Chapter 03
コロンブスで結ばれた
〝美しい港の物語〟
1992年は、1492年にコロンブスがアメリカ大陸と遭遇して500年目の年に当たり、「コロンブスのアメリカ大陸遭遇500年」をテーマに世界中で一大イベントが行われました。
マルコポーロの『東方見聞録』に触発されたコロンブスが、黄金の国ジパングを目指して冒険航海に旅立ち、結果としてアメリカ大陸と遭遇したのですが、ジパング到達の夢はついに実現することはできませんでした。
そこで1992年、日本政府も援助してコロンブスの帆船サンタ・マリア号をスペインのバルセロナ港で復元し、500年の時を超えて冒険航海を実行に移しました。冒険航海は成功し、日本到着後日本回航をしましたが、その際に大船渡にも入港しました。大船渡こそがサンタ・マリア号が目指すべき港であると、冒険航海を企画した実行委員会が考えたからです。
このとき、500年前にコロンブスが出港した町スペインのパロス・デ・ラ・フロンテラ市と、ジパングにたどり着いたならば入港したはずの大船渡市との間で姉妹都市が結ばれました。
コロンブスの冒険を縁に、500年の時を超えて結ばれた二つの港町の美しい物語です。